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セカンドライフ

集団になじめない人

離れて暮らしていると肉親との感覚もどんどん乖離している事を改めて実感します。

お互いの主観の違いに折り合いがつけれなくなって、いらいらが収まらなくなります。

この感覚は職場でも感じてきた感覚に似ていると、ふと思いました。

理系と文系

長年勤めてきた職場は事務職場なのですが、どうも感覚が合わずに違和感を感じ続けてきました。

あまり大括りにして割り切ってしまうと孤立するだけなのですが、会社生活もう残り少ないので自分の違和感の方を大事にしてみたいと思います。

私は根っからの理系人間ですが、文系の人との最も大きな認識の違いは、客観に対する認識の違いにあるようです。

理系の客観は定理や法則のように、前提となる条件の下では絶対真理です。理系の人は腹の中では信じられるものはそれしかありません。

一方、文系の人はそのようなものを持たないので、集団の中の最大公約数をもって客観としているみたいです。

法律や契約のように明文化されたものの中にも曖昧な部分が含まれており、その適用解釈に前例や世論に負う部分が多分に含まれています。

文系の世界では小さな組織レベルでも、集団内の暗黙の了解やひどい場合になると上位者の気分のようなものが客観として扱われることになります。

いわゆる空気を読むということが、小さな集団組織の客観に従うとほぼ同義になっています。

絶対客観と集団主観

理系の認識する客観に名前をつけるとすると絶対客観。それに対して文系の言う客観とは特定の人間集団で合意された「集団の主観」だと思います。

合意の中には暗黙の了解も含まれていることに、理系人間の不信感や疎外感があるようです。

大昔からの常識

人間は一人で生きられない。だから集団社会を構成する。

イスラム教やキリスト教のような世界宗教も集団組織を維持するための「集団の主観」のような気がします。

集団をまとめて組織を維持するには、実態の無い架空の物語を「あるもの」として信じることが人間社会の前提みたいです。

そう考えると人が作った国や貨幣にも実は実態は無く、集団の構成員があると信じていることで成り立っているだけのものです。

どうやら自分が抱えてきた違和感のようなものは人間社会の基本的な約束事で、生活するという事はそういう事なのかと改めて割り切る必要があるようです。

私と同じように生きづらさを感じている理系の皆さんもがんばりましょう。

孤独を愛する

生きるためには集団に属する必要があったのですが、集団主観に違和感を感じるのであればその関わりを少なくすることは、決して悪いことで無いと思います。

お金も集団の主観に支えられている虚構ですが、関わりを少なくすることは自分への流通量を減らすことになります。

そこを割り切って、ミニマムな生活に移行してしまえば、生きていく上でそれほど多額のお金は必要ありません。

要は生活の優先順位の問題で、お金よりも「自由な時間」を優先させると覚悟を決めれば、ずっと楽に生きられるはずです。

孤独を愛するということは、そういう事だとふと妄想しました。

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